「発達障害」と心理臨床
2010年03月26日(金)


京大心理臨床シリーズの7冊目です

序章にやられてしまいました



発達障害という表現をするならば、人間はみな発達障害であろうと、

筆者(伊藤良子)は考えている。

発達障害という概念は、その前提に人間に完全な発達の姿が

想定されていよう。

しかし、ダーウインが

「種は継起する軽微で有利な変異の保存と集積によって

変化してきたのだしまたいまも緩徐に変化している」

と勇気をもって述べたように

人間は原初の昔に「イマゴ・ディ(神の似姿)」として

今日の姿を獲得したのではない。

人間は、個体発生の次元のみならず、

系統発生的にも気の遠くなるような年月を経て

過酷な地球環境の中を生き残り、今ある人間になった。

そして今もなお変化し続けている。

・・・・・中略・・・・

いまも緩徐に変化している、のが今日の個々の人間なのである。

それゆえ、同じ指紋がないように、

人間は一人ひとりそれぞれ固有のあり方で存在しているのであって、

ここの多様なあり方が、全体としてのみならず人類を超えた

有機的・無機的存在の維持と発展をもたらしてきたと

考えられよう。

・・・中略・・・

ひとつのものにひたすらこだわる、あるいは

さまざまな刺激に敏感に反応するというあり方は

今日では「発達障害」と呼ばれる資質であるかもしれないが、

古くはわれわれの祖先の生命の安全を守り、

さらに科学や文化の進歩に大きく寄与してきたことを

忘れないでおきたい。




社会も変化の途上、彼らも変化の途上

そのはざまにあって

労働の喜び、報酬を得る喜びを

保障される世の中であって欲しいと思います




2010-03-26 18:59 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(0) |
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2010年03月26日(金) 23:39 by シェリー
う〜ん。
確かに

「やられた」

というカンジですね!


私も発達障害について、勉強したいと思っていますが、
いつも心のどこかにひっかかるものがあるのは
これなのかな?

MU大で卒研された方やmkfamilyさんのように
身近に診断された(あるいはボーダー)家族が
いるわけではない私のようなものが
研究をする資格はあるのか?

と自分に後ろめたさを感じるのは
この著者のような視点が欠けていることを
本当は気づいているからかもしれません。
シェリーさん

はじめは障害の有無という2つの世界がある、

と思い込んでいた私でした。

しかし今では2つの世界ではなく

連続性があると理解できるようになりました。

そして「障害」という名前を必要としているのは

本人ではなく「社会」なんだということも

知りました。

自分自身も「発達障害」との連続性がある、

と気づくこともできました。

このことは、専門家といわれる多くの方が

おっしゃることでもあります。

そして発達障害に限らず勉強をすることで、

自分には関係のないことだと思っていたことが、

自分と繋がっていることに

気づかなかった(私の場合は気づこうとしなかった)だけなんだということも

だんだんわかってきました。

何歳になっても勉強できることは素晴らしい!

シェリーさんの「研究(勉強)したい」というお気持ち、

それだけで十分だと私は思います。

偶然のように思える必然がそこにはあるのではないでしょうか。


・・・つい熱くなってしまいました・・ごめんなさい

2010年03月27日(土) 08:59 by シェリー
mkfamilyさんにそうおっしゃっていただけると
ちょっと安心します。


確かに、少しこの分野に足を踏み入れると、
連続性の障害と言われる意味がわかってきますよね。
「障害」というコトバもあまり使いたくないですが、

要は「ある状態」を表現したいけど、適した名称がうまくみつからなくて、
便宜上のものだと思うようにしています。

ただ、呼ばれる側への配慮は少し足りないですね。

前にも書きましたがKazeは、ADHDの要素を多分に持っていると思います。これまでの自分の歩いてきた道を考え、“生きにくさ”の幾つかは発達障碍の本を読むと思い当たり、自分なりの工夫もまんざら間違っていなかったなと思っています(^^ゞ
“障”のこざと偏(阜)は小高い土山・丘陵を意味していて、“碍”の石偏は大きな石というように障碍物を表しています。
目に見える障碍なのか、気づきにくい障碍なのかの違いがありますが、ひとは生きる上で様々な試行錯誤をしてきたと思います。
例えば、Kazeの好きな推理作家アガサクリスティーはLD(学習障碍)だったと言われています。それでもあれだけの作品を発表しました。
今、手元にないのでハッキリ言えませんが、古くは、徒然草にアスペルガーだと思える僧が登場します。
自分にあった職業に就けば、能力をいかんなく発揮できる人でも職種を間違うと本人も周りの困り感を抱えながら生きていかなければなりません。
障碍というレッテルをはるのでなく、どう生きていくのかを考える社会であってほしいですね。
KAZEさん

私も多分に注意欠陥だと思います

でも他の部分でカバーできているので

そそっかしい、という個性として社会生活を普通に送れています

比較的障碍のある子に適性があるといわれている

単純作業は現在機械が担っています

便利すぎる世の中は、人間から能力を奪うことにも

なるのですね

こんばんは。
発達障害児を抱えてる親として、人間はみんな何かしらの障害者だと思う、と子供に話した事があります。
出来ない事が多い子を発達障害と言うならば、みんなそうだと思ったので。
ですが、極端に出来ない事、処理しきれない事が多いから(一般よりも多すぎるから)、みんなが助けてくれるんだと言いました。
だから、目標は「判らないので教えてください」「判りやすく教えてください」と自分の口から言える事です。
そして、それに感謝出来る子に育って欲しいと言う事です。
知らない事は人に聞けばいいんだ。
これはyamachan自信のモットーでもあるんですけどね(^^ゞ
完璧な人間が居たら、そっちの方が怖いですもん。
yamachan

世の中に余裕がなくなってくると(不況)

人は弱者を排除しようとする傾向があります

就職難も最初に波をかぶるのが彼らです

彼らが住みやすい世の中は

みんなが住みやすい世の中なんですけどね〜
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ニックネーム:mkfamily
性別:女
海の見える家で暮らしています。通信制大学で心理学を勉強し、2011年春卒業しました。

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