2015年04月11日(土)
宗教・いのち・国家


https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582703368



今年2月に出た新刊を図書館に購入依頼してみました


後半の「国家」は難しかったのですが

前半の「いのち」「宗教」のあたりは

図書館の本でなければ付箋をつけたい箇所が

たくさんありました。



本文P67より

「小さな死を体験することで、上手に死んでいける」


ホスピスをはじめた初期の頃は

全国からいろいろな方が来られたんです。

そうすると農業をされていた方は

とても看取りやすい。

看取りやすいという言葉は誤解を生むかもわかりませんが、

皆感謝されるのです・・・中略・・・

これは私の勝手な解釈ですけど、

たとえば天気は思い通りに動いてくれないし、

うまくいくなと思っても台風が来て作物がぜんぶやられたり、

空梅雨でダメになったり、

ようするに自然の中で仕事をしておられて

「思い通りにならない」生活をずっと続けてこられた。

それが最期の自分の旅立ちへの道のりでも、

「ああ、いろんなことがあるけれど、なかなか人間は思い通りにならんからな」

と。

・・・中略・・・

トルストイの「イワン・イリイチの死」の中の農民が

死を当たり前のこととしてバタバタしない。

・・・死を受け入れている農民の理想というものを

「飼いならされた死」というふうに言っているんです。


・・・中略・・・

・・・手に入れたいと思ったものが手に入らないということは

一つの喪失体験というか死の体験で

これは小さな死の蓄積ですよね。

それで最後に自分が死ぬという

本当は一番受け入れられがたい喪失に対面したとき

本人が自覚しているかどうかは別にして、

今までの総和で、いままでも小さく死んできて、

これは本当の死だからどうってことないわ、っていう

何かそんな流れが庶民の死にはあるような気がします。

                  本文P68-69より抜粋





自分の死に向けて

生活の中で小さな受容のプロセスの練習をしている・・

ということになるのでしょうか。

うまくいかないことばかりの私ですが

悪いことでもないんですね



宗教・いのち・国家
島薗 進対談集
平凡社
2015-04-11 21:25 | 記事へ | コメント(2) |
| 介護 / 読書 |

ニックネーム:mkfamily
性別:Female
母の介護をきっかけに始めたブログも2度目の引っ越し。下の子が20歳になったのを機にイタリア好きが再燃。残りの人生は旅に出るぞ〜。

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